2016年6月29日水曜日

相田啓介:玉虫塗り

玉虫塗は銀粉を使う。


今はあまり見かけませんが、私が物心ついた時分家の中の漆器は玉虫塗りの物が随分多かった様に思います。

玉虫塗りは下地が出来上がったものに極薄く漆を塗り乾きぎわに極細かい銀粉を蒔き良く乾かします。
ローダミンという染料で着色した粉末(少量のアルコールに混ぜたもの)を混ぜ込んだ漆を塗るのですが、使っていくうちにどんどん乾きが悪くなり24時間もすると固まりそこなってしまいます。残った漆も自ずと使いものならなくなってしまいます。

ローダミンは毒性もあり、当時の玉虫塗りは今考えるとあまり良い塗りではない様に思うのですが、昭和25年~30年頃はアメリカへの輸出用の漆器として会津の漆器製造者が総出で、かなりの量を作った様です。
昭和28年頃をピークにその後はあまり売れなくなり、売り先からの集金も大変だったようです。

昭和29年、私が小学校2年生の時母が初めて東京に連れて行ってくれたのですが、今思うと集金の為の上京だったのでしょう。
どんより濁った品川の海、アメリカの軍艦が不気味に横たわる横須賀港と、紅色にぼうっと底光りする玉虫塗りが重なって思い出されます。
一般には時代の流行にはあまり流されない仕事の様に思われがちですが、そんな事は無く手工芸品の売れる物(売れ筋商品)のサイクルは結構短いのです。

その後、私の家では金虫喰い塗り、という塗りの膳を10年間作り続けたのですが、今ではそういった塗り物もあまり見かけなくなってしまいました。

私の代になって丈夫でシンプルな漆器を作ってきましたが、現在はそういった堅実な仕事の漆器は高価になるので、あまり売れなくなってきているようです。
あまり下地に手間をかけない漆器がもてはやされるようです。
1~2年で壊れてしまう様な椀では困ると思うのですが、20年も30年も使える椀は時代遅れなのでしょうか。



平極紛、金継ぎなどでよく使われる紛の種類。

右手でカメラを持っているので左手で開ける。

中には紙袋のようなものが、

この中に銀粉が、

左手一本で開封するのはちょっと大変。

頑張って開けてみる。

これが中身。

こんな感じ。

2016年6月23日木曜日

雄壱郎手帖。

金継ぎの様子。


先日の事か、その前日か、それ以前の事か、大体本当に記憶が存在したのか、、、、あやふやな脳内。今こうして文章らしき言語の集合体が秩序をもって何かしらの事実を紡ぎだそうとしており、右手の蒔絵筆を握った握力の痕跡が何とはなしに思い出の様に感情の臭気を呼び起している様な気がいたします。

なので、今日は書肆逆光にて、数回にわたって行われている金継ぎ教室のご報告をしたいと思います。

、、、、と書き出してはみたものの、 教える事に必死であった為かほとんどの記憶が脳内から消失してしまったようなのです。
この現象は、生まれ持った特性なのか、日々の飲酒の間接的影響なのかは分かりません。

かりに生まれ持った特性だった場合、大変深刻な問題でこのペースで順調にそれが育ってゆけば、間違いなくあと2~3年で完全に自我をも喪失し微かな記憶が脳裏をよぎる程度の純白により近い頭脳になって、危険な状態になってしまいます。

なので、おそらくは今週の月曜に逆光さんから頂いたバーボンがそうさせているのかも、と部屋の隅に転がった空き瓶を見ながら考えております。

一体どのようにしてご報告したら良いのか、、、、。

書肆逆光、生徒の皆様大変ありがとうございました。


線描き用の漆。

漆をふき取る為の灯油。

金継ぎ作例。

作例色々。

書肆逆光の展示台の上

蒸し暑いので硝子アイテムが素敵。

ローマングラスも、、、、


という事で、ご報告まで。

2016年6月17日金曜日

ベトベトワンダアランド。

蒔絵筆を洗浄する為の竹で作った串。「ウォッシュ竹」


軽いオシャレな外見の中身があるか無いは、そんな事知る術もないのですが、そういった宙に浮いた重力の存在すら体臭から消え失せてしまった、どっちかというとアッサリとした人々或いは工芸品がここ数年モテている、、、、、という世界が成り立っている様です。
流行や趣向といった概念は時間の流れの中で大衆性を持ち、自然に肯定的判断として馴染んでいくのだろうと思います。

あっさりしたスタイリッシュな今時の流行を否定すべく、人類に内在する負のエントロピーを根底から破壊しつつ、自分もそうなりたい、そうなって経済的に安定した生活を営みたい、という自己矛盾を批判し乗り越える為に始まった金継ぎ教室、、、、、、。

今日は金継ぎ教室で使う、金や銀粉を蒔き付ける為に粉の下に塗る精製漆の作り方を説明してみようと思います。

金紛を蒔いてゆく作業をするにはそのベースとなる界面をいかにフラットに作るか、、、がポイントとなります。
なのでその界面となる漆の具合でその全てが決まる、、、、と言ってもいいほどです。


まず、精製漆、生漆、油(1,2滴)を混ぜ合わせます。気候や湿度に合わせてその分量が異なります。

混ぜ終わったら漆を集めて、

樟脳を適量入れます。

混ぜます。

ザラザラしますが混ぜます。

とにかく混ぜます。

そうすると、混ざります。

このような持ち方で漉し紙を持って、

そこへさっきの漆を箆で入れ漉します。

漉します。

ゆっくりと漉します。

出来上がり。

これを明後日の金継ぎ教室で使います。
と、いう事で金継ぎ教室、どうぞよろしくお願い致します。

2016年6月12日日曜日

げっと・ざ・ぐろ~り~

三島町へ急ぐ。

トンネルが多い道程。

工人祭りは朝が早い。

遠く尾瀬沼に源流する只見川、その浸食によって形成された只見川右岸の河岸段丘を基層として大谷川、倉掛沢 の流入によって形成された扇状地の緩斜面は今は大沼郡三島町と呼ばれる地域で、縄文時代からの人々の営みが在り現在もその考古の霊的エネルギーが少なからず何かしらの影響を、その風土に及ぼしている、、、、と思われます。

その全貌は未だに把握しきれておらず、発掘された縄文晩期の遺跡は全体の総面積の7パーセントにすぎない、、、、そうです。

その知られざる三島町の領土の未知の霊的エネルギーを最大限に活かした工人達のデスマッチが昨日今日と行われたのでした。

地元の人々はその闘いをふるさと会津工人祭りと呼んでいるそうなのですが、「祭り」といってもその内容は血みどろの戦いで、笑いの止まらない勝者の工人もいれば、その反対の死相を浮かべ硬直化する工人もおり、それはさながら生死を賭けたグラディアートルなのです。


昨日今日とそのデスマッチに我々相田漆器も参戦したのでした。
あの手この手と考えられる全ての策をねり、数限りない小技を駆使し戦った訳ですが、直裁な表現をすると結局は、ただの工芸品の販売、、、、なので目の前のお客さん達に言語で品物を説明するという行為の積み重ねなのです。
ですから生死は賭けてはいるものの想定される「敵」いうものが存在せず、一体何と戦っているのかわからないといった苦悩を感じながら工人達は、この二日間の「祭り」を堪能したのでした、、、、、。

皆様大変ありがとうございました。


縄文の遺跡を直覚し、突然地面を掘り出す女の子も。
二日間天気に恵まれお客さんも大入。

開店前はこんな感じ。

編組品を買って帰る足取りはどことなく皆さん軽やか。

皆様大変ありがとうございました。

2016年6月9日木曜日

複製技術時代の、、、、、

生き残りを賭け版画のモチーフを選び出す。

学校教育というものは、一方的である方が良い、、、、という考え方ははたして間違っているのでしょうか。

クラスに必ず存在する、みんなと同じ事が出来ない子。

それは、甚だ稀有の様に思えなくもないのですが、本当の事は分かりません。

と、いうのもこんな思い出があるからなのです。
体育の授業中のことだったと思います。
レスリングというスポーツには受け身というものは絶対に必要なものです。基本中の基本で、受け身の出来ない選手は強くなるどころか、生命の保証すら危うく軽いケガで済むところが、大ケガをして選手生命をたたれる事すら多々あるのです。
なので、レスリング協会はじめ学校教育では、徹底した受け身の講習を義務づけておりました。

ある日の事です。そんなレスリングの授業中、みんなが受け身の練習をしている時の事でした。

ひとり、勝手に別なことをしている子がおり、みんなとは全く違う動きをするその子に体育教師は顔を真っ赤にして大きな声で怒鳴り散らしたのでした。
それに対し、平然とその子はこう言いました。
「そんなことじゃぁマッスルスパークはおろか筋肉バスターすら習得出来ませんよ、、、。」と、

その後、体育教師と猛特訓をし、その子は悪魔超人やパーフェクト超人をなぎ倒し有名な超人になったそうです、、、、、。
この話でも分かるように、皆と同じ事をしないという事への人類の隠れた願望はある意味大きなリスクを伴うものなのですが、それにもまして見返りも多く、弱者の思考といえるのかもしれません。

明後日に控えたふるさと会津工人祭りに向けて皆が必死に手仕事をする中、弱者という立場を最大限に活かし、敢えて仕事を中断し、ここ数日版画に没頭してみました。
果たしてマッスルスパークは成功するのでしょうか、、、、、。

版画はじめました、、、、、。



アフリカの民芸的置物。呪術用ではないとの事。
日本でいう所の、こけしの様な郷土玩具。

こちらは度々このブログで紹介している狂気溢れるダイアポロン。

この二種類の版画を軸に漆器を織り交ぜてふるさと会津工人祭りを乗り切ろうと思います。

ダイアポロン版画は画面下部の色を以前摺ったものより彩度を上げる事によって、
より違和感が向上し凶暴性がアップしました。
憎きあの子への果たし状等にピッタリ。
アフリカの民芸的置物の版画はその対局で愛しい子への恋文に。
一枚500円也
今回もかなり散漫なブログになってしまいました。ふるさと会津工人祭り、どうぞよろしくお願い致します。

2016年6月1日水曜日

米、米、倶楽部。

米食文化圏内、フィリピンのココナッツの伝統的なお椀。両手にスッポリと収まりどことなく和風。
米を食すという事について考えさせられる形。


宮城県の桝形囲貝塚という遺跡から発見された土器の底部に籾の圧痕があり、弥生時代のごく初期には、すでに日本では米食による生活の営みがあったそうで、もっともっと前から米を主な食料としていただろう、、、というのが現在の米食の歴史認識なのだそうです。

2000年以上にわたって米食をしていれば、自ずと米にまつわる信仰や祈りといった気持ちが芽生えるのも強ち当然といえば当然なのですが、そういった気持ちが数十年で人々の心から消え失せてしまう、、、、というのもなんだか何かの予兆なのかも、と考えてしまいます。

こんな気持ちが芽生えたのも、先日、青梅市にある朱文筵という工房で催された「椀展」へ行ってきたからなのであります。

両手にスッポリと包み込むように椀を持つという現象は米を食べる、、、、という行為がそうさせているのかもしれません。
そんなかけがえの無い手づくりの椀の展示会は作り手の顔の見えない古い時代椀から今現在朱文筵にて作らているものまで、色々なお椀が展示され大変興味深い催しでした。


まず、こういった旅紀行的なブログを書く場合、道中で起こった色々なハプニング(予想外の事故)や電車の中で食べた旨いもの(駅弁など)の味、思いがけず出会った素敵な人々の思い出(甘酸っぱい恋)などが予定調和として読み手は想像するのでしょうが、そんな定石は会津から新宿までのバスの中でも新宿から青梅市までの電車の中でも起こる事の無い記憶の断片すら思い出す事が困難な片道8時間。長時間の移動というものは脳内のセロトニンの分泌を阻害する効果がある、、、、、、という都市伝説を何処かで聞いた事があります。その中で思った事といえば青梅市も同じ東京都なのにこんなに人口密度が違うのか、、、、という事です。なんだか青梅線の日向和田駅に着いた時には会津へ帰って来てしまった「ただいま」モードになってしまい、自分の家を探してしまい、旅の目的すら忘れてしまいました。


展示会の話しに戻すと、「椀展」では手挽き轆轤による椀木地制作の実演もしており、どういったプロセスで一本の丸太からお椀の木地が出来上がるか、が体験する事によって体を通して知る事が出来ました。手挽きによる轆轤で作られた椀達はどこか人間味があり、一つ一つが違った顔を持っているような気がしました。
朱文筵の皆様大変ありがとうございました。




青梅の景色。会津若松を連想するような景色。

故郷へ帰ったのか、、、、と空を見上げ、自我を失う。

手挽き轆轤。

この、手挽き轆轤が形に自然な柔らかさを付加してくれる。
人工的な作為を和らげる、、、、、ような気がします。

材は栗の木。


何だか素敵。

もう、これで完成なのではと思わせる優しいライン。

展示されてた五郎八椀。

椀の型。(材木を粗削りをして乾燥させたもの)

素敵な展示会大変ありがとうございました。