2016年10月31日月曜日

チョット早目に、、、、。

今年も11月29日から日本橋高島屋にて催事をする予定です。

本当ならば、今頃予定としては、もう既に11月29日から始まる某デパートの催事の通知は終わっているはずで、オシャレ極まりない素敵な写真をブログにアップして、Facebookでは、「いいね」がバシバシ押され、売約済みになるであろう作品がブログ、フェイスブック、インスタグラムの三つの波状攻撃でパソコンの向こう側では薄ら笑いをしている、、、、、、のが数か月前の当方の予定、、、、、でした。

しかし予定というものは、希望の大きさと半比例しているようで、こちらが大きな希望を期待すればするほど裏目にダメな方へと狂ってゆくというものなのかもしれません。

だからといって、今月のように敢えてブログの更新回数を控えめにしたり脱希望という貼紙を部屋中に貼ってみたりと、、、、、そういった呪術的な行為はなにものも生み出すことも無いので、今月2回目のブログの更新は、素直に催事のご報告をしたいと思います。

日本橋高島屋にて11月29日~12月5日まで、催事をいたします。


昨日の上塗りラッシュ。

まだ間に合う、

本当に間に合うのだろうか。

上塗りの漆茶碗。

制作中の皿。


チョット早めにご報告、、、、と思っていたのですが、なかなか難しいようです。来月はちゃんとブログの更新をいたします。どうぞよろしくお願いいたします。

2016年10月11日火曜日

相田啓介:流れの内にある。

前回は民芸を書きましたが少し書き足りない事がありますので、書き加えたいと思います。
物を作り出すのは人間です。才能のある作り手や職人、そうでない作り手も、すべては、そのバックグラウンドから物が生み出されます。技術が大切との考えもありますが、技術は手段であり何物も生み出しません。
その作り手の境遇、才能、育ち、何を学び、何を考え、何を感じ取り、何を好み、そしてどう生きるのか。
そして時代。
 民藝館に展示されている様な美しい工芸品はその時代の背景のもとに生み出されたものです。別の時代や現代では作り出す事が出来ない品なのです。時代が生み出したとも言えるのでしょう。
今は,売らんが為にデザインされ、売るために作られた、本当に必要なのかどうかも分からない
製品が身の回りに溢れています。そして何者かに追い回される日常。美しい自然は徐々に破壊されつつあります。この様な現代社会の中で、人間の感性は麻痺し磨滅し、何が美しいのか、何が
良いのか、判別さえ出来ないというのが現状なのではないでしょうか。
例えば、現代人が桃山時代のものにどれほどあこがれても、それは作り出せないでしょう。現代人
には現代人のものしか作れないし、仕方のない事なのです。
桃山の茶人が好んだような、あるいは民藝館に展示されている様なレベルのものはもう作れないのです。
日本人の美への感覚は徐々に下がっている様に思えます。やはり鉄と人は時代が降るほど下がっているのではないでしょうか。

すべては流れの内にあるのです。

人はその高さ以上のものを作り出す事ができません。もし上を望むなら自分自身をほんの少し
づつではあっても、高める為の努力をするより他に道はないのでしょう。
「民芸」。こんな矛盾に満ちた理屈はもう要らないのです。自分が美しいものを美しいと、良いもの
を良いと思う。
そうゆう生き方をすれば良いのです。

相田啓介作、八寸欅鉢。

十字架型の仕切を内蔵。

その仕切。何だか船っぽい。

裏側。  直径24・5センチ 高さ7センチ。