2015年11月23日月曜日

相田啓介:創作と模倣(器物の形状について)

展示会でお渡しするべく、版画を摺っておりました。その版木、、、。
新たな物を作る場合、手本となる物があれば創作ではなく写し或は模倣という事になります。その一部を変化させた場合は写しからの発展という事でしょうか。その手本が古い時代のものであればそれで良いのですが、現在作者が存在する場合、現行品である場合のそれは少しニュアンスが違って模倣或は「パクリ」という事になって良からぬ行為と見られる事になります。
私の場合は「パクリ」は大嫌いですし、写しも苦手なので、自分で考えた物を制作の基本としています。そうは言っても長い間には、ほれ込んだ古い時代の名品をどうしても自分で作ってみたいと思うことがあります。その場合はその対象物を時間をかけて見て、眺めて、そして忘れてしまう事にしています。そしてその後どうしてもそれを作ってみたいと思ったときは、自分なりに図面を作ってみます。その場合は半分創作で半分が模倣となるのでしょうか。それとも創作といえるのでしょうか。
人類の文明及び文化は相互の模倣とわずかの創意によって発展してきました。工芸では、例えば産地などでは技術も制作物も模倣とわずかの創造によって発達発展してきたのです。自分の創作と思い込んでいる物も実は以前から見てきた数多くの工芸品や美術品などの断片とその組み合わせにすぎない事も多いのです。創作と模倣はどこからどこまでとの線引きは難しい事なのです。
ここに一つの例を上げます。輪島のレジェンド奥田達朗氏の場合、写しの名人と言われていたそうですが、私は違うと思います。数々の名作を遺したのですが、その手本として弥生時代の土器であったり、朝鮮の木の椀であったりするのですが、彼の作品とはまるでイメージが違うのです。その手本を時間をかけて噛み砕いて、消化して創りだした新たな創作に思えて仕方がないのです。奥田氏は創作家であったと私は思っています。その作品を木地屋に持ち込んでコピーを作り量産するなどは盗人の様な恥ずかしい行為です。
作家とか工芸家とか呼ばれている人が他人の作品の「パクリ」をする様では中国などのパクリ業者と同じレベルに成り下がってしまうのではないでしょうか。プライドを持って作品作りをしてほしいものです。全ては自分の中にある事なのです。決して人の真似をしない自分自身の制作を身上とする作り手も少なからず見る事が出来るのです。
公募展を目指す作家がオリジナルな制作を目指すのは当たり前の事ですが、そういった方々も椀や皿などの漆器を作る場合、あまりそこに拘らない人も中にはいる様です。プライドを持って作る。それに尽きると私は思っています。

ほれ込んだ骨董ダイアポロン。プライドを持って摺り上げた版画とともに。

これじゃ、何処かのパクリ業者と同じ、、、などとお思いの方、展示会に来て頂いて、
声高にダイアポロン版画下さい。と仰って頂けたら、一枚差し上げます。
模倣か果たして創作なのか、、、、。どうぞよろしくお願いします。

スプーン色々。

12月1日~7日、日本橋高島屋7階和食器、相田啓介うるし展。
ささやかな催事ですが、どうぞよろしくお願い致します。