その後、初めて輪島を訪れ、大向高州堂の工房を見学し「ああ、これが輪島塗の現場なのだ。」と感激したのでした。
それから数年後、輪島の奥田達朗さんの工房に伺う機会をえたのです。奥田さんは輪島の歴史やその漆器の歴史と成り立ちを語って下さいました。工房の中はきちんと整理されており、特に上塗場には、何ともいえぬ緊張感が漂っていました。そして見せて頂いた漆器は素晴らしく気品にあふれ、他の輪島の漆器とは一線を画しており、今でもその時の感動を思い出します。その憧れの漆器に一歩でも近づきたいと思いで手探り、見様見真似での漆器作りが私のスタートだったのではなかったかと今も思っています。
その後、奥田さんには貴重なアドバイスを数多く頂きました。残念ながら昭和54年5月4日達朗さんは亡くなられてしまいました。達朗さんの後を継がれた弟さんの工房へ伺う機会はありませんでしたが、昭和63年再び輪島を訪れる事が出来ました。奥田さんのお宅は以前どうりでしたが、町の中はなぜか沸き立っていました。以前の落着きや、静けさは無く、ワーンと町中の音が混じり合い、異様な有り様になっていたのです。そして町中の漆器店に並ぶ漆器は以前に増してきらびやかな、キラキラ,チャラチャラしたものが多く、下地も薄く安っぽい感じを受けました。輪島の仕事はレベルが落ちたのだと知りました。昭和63年はバブルの最盛期。高級漆器の輪島塗は売れに売れたそうです。バブル成金はチャラチャラした派手な漆器を好みました。しかも品物が足りなくなるほど売れたと聞いています。
しかし輪島以外の漆器産地が売れて賑わう事はありませんでした。漆器ブームなどと言っている人もいますが、それは輪島の中だけのことでした。 それから数年後、輪島漆器は売れなくなってしまいました。バブルの反動でしょう。そしてその頃から、輪島の漆作家の活躍が目立つようになりました。その多くは、輪島塗の看板を掲げているものの、肝心の下地はいい加減なもののように私には見えました。特に椀を作品の主体とする作家には、ひどい仕事が多いように見受けられました。
子供の頃の会津塗の椀を思い出します。正月に新しい椀をおろして、使い始めるのですが、少し使い込むと「ジーっ」と音がして気泡が出てきます。三か月もすると下地がめくれて木地が出てきます。子供心に何とも無残な情けない様な気持ちがしたものです。
高いお金を払って買った椀が、少し使った位でだめになったら、どんな気持ちがするのでしょう。いくら「塗り直します。」と言われても相当応えるのではないでしょうか。高価なので、あまり使用しないからでしょうか。使い手が使い方が悪いと思うからなのでしょうか。また、送り返すのが面倒だからなのでしょうか。あまり問題になっていないのは不思議なことです。
輪島の作家たちが、いい加減な椀を作るという事は、先人たちが築き上げた輪島塗というブランドを食いつぶしている、という事です。そして漆器のフアンを減らしている事なのです。
ごく近年のことですが、ある作家が、会津で個展を開催したそうです。ずっと以前の会津塗は、使用に耐えないものばかりでしたが、近年はしっかりした漆器を作っている工人達も少なからず存在するのです。
八百長の様な輪島塗を、よくも会津で展示したものです。恥を知ってほしいものです。もっとも、それを知らないので、そんな事が出来るのでしょうけれど。
20年以上使ったお椀。 |
中は断紋(小さな皺)だらけ。 |
裏側。 |