年末年始は木地を制作。 |
今日は今年の抱負のブログです。抱負というものについて考えてみようと思います。
手堅い抱負をお正月に打ち立て他人にひけらかす。こういった事はお正月の一種の流行りのようなもので、意志の持続力が弱くすぐに塗り替えられる糊塗、、、であるはずなのに毎年この行為を人々は常習的に続けています。この抱負というある種の怨念は何を訴えかけているのでしょうか。このメカニズムを探ってみようと思います。
例えば、流行歌のようなものを聴いて受験勉強をしていた少年がいたとします。
今時の受験生にしては、ちょっと懐かし気な「おどる亀ヤプシ」が心に沁みる、、、そんな少年が見事志望校に合格し、都会の生活に馴染むため、と突然にディアンジェロの「ブラックメサイア」以降の例えばロバート・グラスパーなどの70年代のスピリチュアルジャズを彷彿させる音楽に興味を抱く様になりタワレコが陰ながらイチオシするシャバカ・ハッチングスが専ら通学路のBGMになり、最終的にムラトゥ・アスタトゥケを敬愛しアフロビートなしでは生きてゆけなくなる、、、、こういった話は都会によくある事例です。
今時の受験生にしては、ちょっと懐かし気な「おどる亀ヤプシ」が心に沁みる、、、そんな少年が見事志望校に合格し、都会の生活に馴染むため、と突然にディアンジェロの「ブラックメサイア」以降の例えばロバート・グラスパーなどの70年代のスピリチュアルジャズを彷彿させる音楽に興味を抱く様になりタワレコが陰ながらイチオシするシャバカ・ハッチングスが専ら通学路のBGMになり、最終的にムラトゥ・アスタトゥケを敬愛しアフロビートなしでは生きてゆけなくなる、、、、こういった話は都会によくある事例です。
その一連の経過を考えると人間の趣向が変わるといった事がその人にとって心的に及ぼす何事かの影響は健全さが必要であり、そういった健康的な何かを精神は欲しているのかもしれません。
しかしながら、その急激な趣向の変化について一分の後ろめたさも僅かな未練も全く無いのでしょうか。きっとそうではないはずです。「おどる亀ヤプシ」を聴いて育まれた思い出は静かに佇んで自己を形成する何かへと成長しているはずです。
こういった自己に内在する気持ちは急激な趣向の変化によって始めて気付く事であって、こういった「気付き」を自覚するということは自己を鑑みるという、一種の自愛の覚醒という現象を目論んでいるのかもしれません。
抱負を打ち立てることによって急激な趣向の変化を経、自愛が覚醒する、、、、、、といった心的効果は、忘年会で疲れた精神を癒す為には必ず必要な儀式、、、、、なのだろうと思います。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
制作中の皿。 |
木地を作るのに結構時間がかかってしまった。 |
この木地を作っていたため、 |
年賀状制作は全くしていない、、、、のです。 |
今年の抱負、は、お正月中に出来なかった年賀状制作をし、「寒中御見舞い」として皆様にお届けする、、、、、、という事です。
どうぞよろしくお願いいたします。