2015年3月29日日曜日

ホヤホヤ日報

ロバート・フランクにてカメラの修行です
今日はあまりにも、お天気が良く仕事も何だか手に付かずホヤホヤした気分。野外カメラの勉強と、、、仕事場近くの欅の木までダラダラダラと出かけてみました。ここ数日の三大苦悩、生活苦、制作苦、ブログ苦、を忘れさせてくれる偉大な木。

無骨にして繊細、そして力強い、ブルゴーニュで云う所のヴィエイユヴィーニュ、解かりやすく云えば古代アジアにおけるダレイオス1世、古代紙史における蔡倫といったところでしょうか?とにかく見るたびに「わぁーすごいぃ」とおもわせる、中年の4大定義、幅、厚み、重み、古格、を感じます。
別の角度から
見上げた角度
、、、、と以上本日の、、、報告でございます。
カムアゲイン。



2015年3月26日木曜日

ノスタルジア

僕は以前からスプーンの古い物をあつめるのも、つくるのも好きで、俗いう高麗匙の、いろいろな形のものを集めてきました。いろんな形、大きさがあってとても集め甲斐のあるモチーフです。
どういう風に模写してやろうか・・・と。今日は、そんな風に毎日少しずつ作り貯めたものの紹介です。
高麗時代の匙
原形がこれ、高麗時代のもので銅合金でできており、驚異かなりの薄造り。木で模写するには不可能な薄さ。けれど印象として華奢な感じが弱いのは造形的にバランスが良いからでは?と勝手に解釈しております。
長さ約23センチ 幅4センチ


こっちが僕の作ったスプーンです。木地では作れない薄さ等、どういった感じで克服出来るか・・・が課題でした。どうでしょうか感じでてますでしょうか?何とか印象が似てくれればと・・・念じながら作ってみました。  


なかなか金属のモチーフなので、上手く表現するのが難しい所も多くて、ある程度の所で折り合いをつけながら作ってゆきました。
それにしてもこの形、スプーンにこれだけ端正な洗練された作りを求める時代って、美意識が物凄く高揚しているように感じます。現代の感覚とはかなりの温度差を実感します。
共に長さ約23センチ





2015年3月24日火曜日

更新する頭脳

カーテンの隙間から外の景色
外は雪でもうすぐ4月というのに物凄い寒さで外の景色もカーテン等の隙間から恐る恐る覗いてみては、がっかりしております。
ブログの更新というのも何だか現代人の思考を反映しているのかどうか分かりませんが、とにかく更新しないといけないのです。現代人の思考もそうなのですが、更新する、続けることが大切なのです。昨日より今日が大切なのです。と思いたい所ですが、、、
手の仕事はちょっと違うのです。手の仕事は繰り返しの様でいて、全くの繰り返しではいけなくて、素材の様子を見ながらの作業なのです。手順は同じでも加減が違うので、見切りの仕事とはちょっと違います。ですから昨日よりも今日が大切という事もなく、むしろ初期段階の仕事の方が重要だったりもするわけです。ですから、今日みたいに季節外れのお天気だと、なかなか思うように仕事も文章も上手く出来ません。兎に角悪いことは全てお天気のせい。
にしたい所ですが、現代的思考の停滞はそうもゆかず、早く暖かくならないのだろうか、、、と願いつつ書いております。
4寸汁椀(薄手)
別な角度から
中の具合
薄手のお椀は木地を挽きあげるのも、塗り上げるのも面倒で毛嫌いしていたのですが、出来上がってみると意外と丈夫で手取りもよく、我家でも重宝しております。
塗りあがる前までその薄さゆえ何だか線の細い感じがありましたが、使ってみて、見た目の割に内容のある使いやすい頼もしい椀だと実感いたしました。
高台裏

2015年3月18日水曜日

酒飲考

日記は、一日を記録する事が大切なのであって、それが例え文章として完成していなくても良いのかもしれない。と昨日お酒を飲みながら考えていました。けれど酔った思考というものは、大抵の場合、次の日忘れてしまったり、あまりにも無茶だったりするものです。
お酒の合う食べ物、お酒に合う音楽、お酒の似合う文学、がある様にお酒の似合う思考があるように思われます。そういう感覚がきっと良い物を作る基礎になるのかも知れない。いやそうに違いないと信じてみたいところなのですが、現実は少し違うようでお酒の似合わない生活の方が制作効率は良いように思われます。しかしながら効率化された制作が最良なのだろうか?禁酒が工芸の本道なのだろうか?と考えつつ書いており、少しでも良い物が作れればと思いながら仕事をしております。どうぞよろしくお願いいたします。
少し前に出来上がったスプーンです

2015年3月17日火曜日

相田啓介:気品という事


工芸の最終的目標の一つに気品という表現が或ると感じております。これは工芸に限らず書であれ、絵画であれ、音楽であれ、全ての物事について云えるはずです。そしてそれは得ようとして得られるものでもなく、努力をしても得られるものでもなく、現代の全ての物事においてそれを表現する事が出来る人など誰一人として、いないのではないか、と私は密かに思っております。
例えば光悦、例えば王羲之、例えば牧谿、例えばフェルッチョ・タリアヴィーニ、この様な過去の天才達の作品には必ず気品というものを感じ取れるような気がします。
現代人には気の遠くなるような高見にあるものと思われます。けれど今の世の中はそれとは正反対の物がもてはやされる傾向にあるような気がしてなりません。
相田啓介作 4寸汁椀
4寸汁椀
裏側
高台裏

2015年3月16日月曜日

工芸論その1

4寸の汁椀
工芸品は昭和30年ころまで、生活用品として一般的につかわれていました。高度成長期になるとそれらは工場で大量に生産された使い捨ての様なものが現れ、つかわれる様になります。
本質的な工芸品には、それがどんなものであれ、それなりの美しさが宿っています。人間の手によって作り出された工芸品には作り手の美意識が嫌応なしに反映されるからです。工場で作られた様な物にも勿論工芸品である以上美しさはそれなりに存在するかと思います。
ある時期にデザインという頭の中だけで完結した美意識がもてはやされるようになります。売るために考えだされた美的要素です。今日の形を旧型にして新しいデザインを生み出すデザインは著しい流行を生み出し廃れた形を数多く更新してゆく、大きな歯車となってゆきました。まさに「神経を摩滅させる機械的な反復運動」の始まりです、、、、、、つづく。
銚子と盃
薬壺

2015年3月7日土曜日

ゴーストライター

K氏のメモ帳
ブログというものは自分の文章を書かねばならないと実感致しました。
なぜなら昨日あまりの自分の文才の無さを痛感したために、父親K氏にゴーストライターをお願いしたのです。
しかし出来上がった文章がどうもしっくりこない。文才がないと文章も読みこなせないのか?それともK氏も文才がないのか?とりあえずしっくり来ない文をブログに載せるのが嫌だったので、いろいろ考えた末に文章の写真を撮ってみたらどうか、文のための文の写真。もしかして文より他の表現の方が色々な事が伝えられるのかもしれない。と思ってみたのですが、どうでしょうか?

やっぱり真面目に毎日時間をかけて文章を考えて、きちんとした事を伝えなければ良いブログは作れないのかもしれません。もっとよい事を書かねば。

昨日の木地
昨日の刃物たち
刃物はなるべくこまめに研いでおかないといけません。なかなか面倒で使ってそのままのものも中にはあります。形状を変えないとこのままでは使いにくいものも。ブログを書くのも大切なのですが、昨日の刃物のお手入れもちゃんとしなければ。
今日作った匙の木地


2015年3月6日金曜日

木地。


先週からずっと木地を作っており、刃物ばっかり使っています。木地の仕事は肉体的にきつい場合が多いのかもしれません。今回も突きノミを握る左腕、ハンマーを持つ右の腕の筋肉痛と格闘で、パソコンを前にブログの設定がどうだ、とかプロフィールが設定されているかどうか、とかそんなことをしているうちに少しは握力が回復すれば、と思うのですが、、、。









ケヤキの木


昨日以前お願いしていたケヤキの材料(お椀の型)が届きました。椀型屋さんにいろいろと注文して無理を聞いていただいた甲斐あって、予想以上のハイクオリティー。
目利き腕利きの椀型屋さんに感謝です。








こんな具合で、良さが伝ると思うのですが。