2015年9月15日火曜日

コーン考

先日届いた唐黍
人類がデンプンを食べ始めて約20万年この長い累積的に積み重ねてきた時間の歴史を今日はすこしだけ覆そうと、そう思うのです。
年間降雨量の極めて少ない南米では我々が毎日食している禾の類いは存在せず、ジャガイモとトウモロコシがその主立った食物なのだそうです。
僕らが今日乗り越えるべき自然への服従は人類がこの世に存在する様になる遥か以前の諄々と刻まれた時間の尺度では言いえない神々の生きた時代から続く生命の焦立った生死の狼煙なのです。
と、そんなことを考えるのも実は先日、北海道の大変美味なトウモロコシを頂いたからなのであります。
どうやって食べようか、、、と色々と考えたのですが、一度やってみたかったトウモロコシのテンプラに挑戦してみました。


8寸の鉢に盛り付け。

拡大画像

上から


 今回はトウモロコシが弾けてバラバラにならない様に、と、トウモロコシの裏面に海苔を貼り付け何とか塊りで揚げる事に成功しました。

8寸木地呂鉢

別角度から



なかなかサクサク感が弱、だったり上手く海苔で止められずに油の中で弾けてしまったり、やっぱり揚げ物は難しい、、、、と返り討ちに合い、深く反省した一日でした。

2015年9月9日水曜日

此岸と彼岸の間の文化

お昼のおにぎり。粒食文化は工芸の生命線。
何も考えずに生きてゆきたい、、、、、。無思想はやがて生きる為の必要な何か巨大な重力となって、空気のようにホヤホヤと鈍く、重くただよい僕たちの身体の一部になって、やがて知性への盲目的な素晴らしい時代がやって来るのだろう、、、、そういう人生ってなんてゆーか、なんかオシャレ。なんかステキ。
と、そういう時代が来る前に人生の間に1回か2回か3回か、それは、個人の趣向に基づいた観念的な行動なのでしょうが、幾ばくかの思想の偏りはあるにせよ純手工芸的な手法で作られた生きる為に必要な裏切りのない、、、、、、と、そんな風に言い切れないのが、ものづくりなのです、、、。

数日前よりフェイスブックを始め、身体的に情報量の多さに眼球の裏側の足でいうところのアキレス腱なのでしょうか、、、、アキレスの様に強靭でありたい、、、、などと錯乱する9月9日です。


今日は特にお伝えする出来事もこれといってないので、漆器の寿命が尽きる瞬間を考えてみたいと思います。
漆器は、どこかの球団の様に永久に不滅ではないので、やがて終わりがやって来ます。直し直し使ってゆけば、いつかの巨人軍のように絶対に勝つ、たとえ9回裏の絶対絶命のピンチでも仁志がいる松井がいる、絶対に大丈夫だ。と思っている方がもしいるのならば、それは、大きな陥穽です。直し直し使っても限界があります。
だいたいお椀で20~30年使えれば良いほう、と僕らは考えております。勿論使い方にもよるのですが、相対的にみて物質的な寿命は漆器はわりあい長い方だと考えるのです。


20年以上使ったお椀のだん文
木地は年をとるにつれ全体の体積は減ってゆきます。それに加えて木の繊維の粗密から、歪み等が現れます。本来ならその前に木工品は目に見える形で体積の減少による割れ、使用による打ち込み、木地欠け等いろいろなトラブルが表出するのですが、基本的には、きちんとした下地(布着せ、堅地等)が施された漆器はそれらの問題をあまり心配しなくて良い事になっております。けれどどんなに屈強に作られた工芸品でも数十年使用すれば限界がやって来ます。漆器も同じで、使い続けることで、塗膜に細かいヒビ(だん文)や塗膜の劣化による色ヤケ等、目に見える形で経年劣化は現れます。それは、見方によっては味わいともとれるのでしょうが。
今日は20年以上使ったお椀の画像をアップしました。

別角度から

別角度から その2

こちらは木取の違う椀。同じように使っても、だん文の入り方が違います。
と、本日のグログでした。