2015年9月9日水曜日

此岸と彼岸の間の文化

お昼のおにぎり。粒食文化は工芸の生命線。
何も考えずに生きてゆきたい、、、、、。無思想はやがて生きる為の必要な何か巨大な重力となって、空気のようにホヤホヤと鈍く、重くただよい僕たちの身体の一部になって、やがて知性への盲目的な素晴らしい時代がやって来るのだろう、、、、そういう人生ってなんてゆーか、なんかオシャレ。なんかステキ。
と、そういう時代が来る前に人生の間に1回か2回か3回か、それは、個人の趣向に基づいた観念的な行動なのでしょうが、幾ばくかの思想の偏りはあるにせよ純手工芸的な手法で作られた生きる為に必要な裏切りのない、、、、、、と、そんな風に言い切れないのが、ものづくりなのです、、、。

数日前よりフェイスブックを始め、身体的に情報量の多さに眼球の裏側の足でいうところのアキレス腱なのでしょうか、、、、アキレスの様に強靭でありたい、、、、などと錯乱する9月9日です。


今日は特にお伝えする出来事もこれといってないので、漆器の寿命が尽きる瞬間を考えてみたいと思います。
漆器は、どこかの球団の様に永久に不滅ではないので、やがて終わりがやって来ます。直し直し使ってゆけば、いつかの巨人軍のように絶対に勝つ、たとえ9回裏の絶対絶命のピンチでも仁志がいる松井がいる、絶対に大丈夫だ。と思っている方がもしいるのならば、それは、大きな陥穽です。直し直し使っても限界があります。
だいたいお椀で20~30年使えれば良いほう、と僕らは考えております。勿論使い方にもよるのですが、相対的にみて物質的な寿命は漆器はわりあい長い方だと考えるのです。


20年以上使ったお椀のだん文
木地は年をとるにつれ全体の体積は減ってゆきます。それに加えて木の繊維の粗密から、歪み等が現れます。本来ならその前に木工品は目に見える形で体積の減少による割れ、使用による打ち込み、木地欠け等いろいろなトラブルが表出するのですが、基本的には、きちんとした下地(布着せ、堅地等)が施された漆器はそれらの問題をあまり心配しなくて良い事になっております。けれどどんなに屈強に作られた工芸品でも数十年使用すれば限界がやって来ます。漆器も同じで、使い続けることで、塗膜に細かいヒビ(だん文)や塗膜の劣化による色ヤケ等、目に見える形で経年劣化は現れます。それは、見方によっては味わいともとれるのでしょうが。
今日は20年以上使ったお椀の画像をアップしました。

別角度から

別角度から その2

こちらは木取の違う椀。同じように使っても、だん文の入り方が違います。
と、本日のグログでした。