大阪のMさんからの注文がきっかけでした。当時、会津に鈴木さんという細工物の木地屋さんがおられ、以前私の父が戦後にアメリカへの輸出用のサラダサーバーなどを作っていただいた縁でスプーンの木地を引き受けてくださいました。
当時は漆器が売れていた時代で、スプーンのような小品は手間のかかる割には儲からない仕事で嫌がる製造者も多く、またアイテムとして認知されていなかった事もあって、誰も漆塗りのスプーンは作っていませんでした。
下地法や上塗り等どんな手法で施せば良いのか、全くの手探りでした。
鈴木さんの木地は綺麗な仕上がりで木地代金も安かったので私も出来るだけ安く良いものを作ろうと必死でした。試作を繰り返し何とか世に出すことができました。そして、そこそこの評判を得ることができました。
初期のスプーンのデザインは木地屋さんと何度も相談して出来上がったもので、私自身は今一つ納得ができなかったのですが、一旦世に出してしまうと形を変える訳にも行かず、また木地屋さんにも難しい事を言いにくく、同じような形で通していました。
そうしている内に自分で納得できるものが作りたくなって来たのです。
以前見たことのある朝鮮時代の金属の匙が気になって仕方ありませんでした。また、その頃グラスファイバーでできたドイツ製グライダーの機能的な美しさへの憧れに近い気持ちがあって、何度か渡良瀬川の滑空場へ足を運んだものです。グライダーの胴体の造形だけでも素晴らしいと思います。
その様な思いも稔って、昭和57年頃に新しいタイプのスプーンを作り出しました。
アルファベットの筆記体のLの文字の形に何となくその造形が似ていることからL型スプーンと名付けました。今こうして眺めてみるとそれほど良い出来とも思えないのですが、当時は良かったと思っていました。
15年間漆塗りのスプーンを作り続けましたが、残念ながら木地屋さんの鈴木さんが亡くなられたので終わりになってしまいました。思えば木地屋の鈴木さんは造形センスも良く、仕事も早く丁寧でした。鈴木さんの人柄もあって続けられた仕事だったと思います。
全部で8万本くらいは作ったと思います。今考えてみると信じられないような数を作ったものです。
作り始めの頃は競争相手もいなかったのですが、次第にあちらこちらで漆塗りのスプーンを作る人も増えて、中国で作られた粗雑な大量生産品なども市場に並び、漆塗りのスプーンは漆器のごく普通のアイテムになってしまいました。
今ではL型スプーンと同じ形状のプラスチック製の朱色のスプーンを外食チェーン店でも見ることができます。
相田啓介作 L型スプーン |
朝鮮時代のものと並べる。 |
朝鮮時代の匙は種類も豊富で尚且つ美しい。 |
浅川巧の「朝鮮陶磁名考」でも少し紹介されている。 |