2015年8月9日日曜日

相田啓介:渋下地の記憶

蝉の抜け殻。夏盛りの毎日…暑い。
私の家は代々塗師の家でしたので、柿渋を使う渋下地を見ながら育ちました。その工程はある程度ですが、記憶の片隅に残っているので、それを述べてみます。
私は昭和21年生まれですが、渋下地が終わったのが私が小学校4年生の時と記憶しています。シグマという油性塗料の下地材が出てきたので渋下地が無くなったのです。「これがら、シブはいらねぐなっただ。」私の母親の言葉ですが、どういう訳かよく覚えています。
何年に一度か、夏の終わり頃に柿渋を仕込みます。まずは道具の準備で直系1メートル、高さ1.2メートル程の渋桶の掃除をする為に、中に残った柿渋の古くなったカスや悪くなった物を小川に捨てに行きます。昔ですので、田舎の街中の側溝といえど水は清らかで小魚が沢山住んでいました。そこに早朝人通りが無いのを見計らってカスを捨てるのですが、見る間に水は茶色に濁り悪臭を放ち、小魚達が死んで水面に浮き上がってきます。今なら大騒ぎになるのでしょうが、昔はどこの塗師もそのようにしてから渋桶を洗っていました。
ムシロのカマスに入った直系2センチ程の渋柿(会津では豆柿と呼ばれています)を農家などから仕入れます。それを木製の台の上で木槌で潰し汁ごと渋桶に入れて作業は終わりです。量があるので、1日仕事だった様な気がします。その後、発酵を経て使用出来る渋になってゆくのですが、どのくらいの期間が必要だったかは今では記憶にありません。
たまに川漁をする人が網に染み込ませる為に渋を買い来ることがありました。1合5円から15円だったと思います。
私の家では主として膳をつくっていました。まず渋にネズミ色をした粉を混入します。松煙(まつぼこり)です。それをミゴ刷毛でスーッスーッと塗り、すぐに黒い砥石でカタカタ、カタカタと研ぎます。砥石に別の器に入った渋をつけながら何度か研ぎ、乾かします。それを数回重ねて終わりです。渋を番茶などで薄めて回数を重ねると良くなると聞いています。
私の家は旅館で使う膳を作っていたので、渋下地の上に漆と砥粉を練り合わせた錆をつけていました。当時は渋下地全盛の時代ですので、ヘラで錆をするのは会津では特殊な仕事だった様です。新潟で修行した「鉄っつあ」という職人さんが見事な錆の仕事をしていました。その仕事を見て他の職人達も錆の仕事に慣れていったのを覚えています。



会津塗り。大正時代頃の錆絵の椀 

上のお椀の内側
商品性を追い求める時代の物なので中身よりも表面を大事にする傾向があるようです。

昭和初期頃の会津塗りの椀の蓋
このころになると、いかに所有欲をくすぐるか、そんな風に物を作っていたと思われ
これだけ上手い蒔絵を施しながらかなり粗雑な下地をしており、実用にはちょっと、、、
と思うのですが、これがこの当時の普通の仕事だった様です。

椀の身の方は見事に塗膜がめくれ、柿渋下地も方法によってこうも違うか
と痛感するのであります。

こちらは江戸時代の柿渋下地の皿
古い時代の渋下地は表面がザラザラしていたりして清潔感が希薄ではあるものの
下地と木地との密着も良く実用第一の正直な仕事。