2016年3月8日火曜日

相田啓介:「めし」「豆腐」考

めしと豆腐。そんな色々を父が書いてそれを僕が適当にブログにアップしておりますが、
今日は以前もアップした米糊の作り方。良い米糊は美しく下地漆に良く混ざるのです。
めし、、、米繫がり、、、、という事で。まずは、電気コンロを温め電気の通電をチェック。
老朽化した電気コンロなので、たまにコイルが火花を飛ばす、のです。
  

随分前の事ですが建築家白井晟一氏の建築文化特集号を立ち読みしていた所「めし」と「豆腐」という二つのエッセイがあり、興味深い文章だったので買って何度か読み返しました。
最近になって読み返したくなったので家の中を探してみましたが出て来ませんでした誰かに貸したのかもしれません。本の貸し借りはどうも具合が悪くなりがちなので、今はそれをしないことにしています。大切な本ほど帰って来ません。
以前の事ですが、知り合いの家で興味のある本があったので、一晩借りて読み進めるうちに自分が貸した本である事を思い出しました。元々自分の本なので2~3日かけて読むうちにその知り合いから矢の催促なので返しました。どうも具合がよくありません。

「めし」の内容は、なぜ飯が美しいか?との考察です。「豆腐」もなぜとうふが美しいか、という論証です。
稲の歴史は数千年にわたり、その間に品種改良を繰り返し、その栽培方法も改良を重ね現在の米がある。お百姓さんは、その過去の積み重ねられた技術の上に自分の腕を磨き「八十八手の手がかかる」と云われる大変な労働の結果として米が出来上がっている。お母さんは朝早く起きてその米を研ぎ、竃に火をお越し、「はじめちょろちょろ中ぱっぱ赤子泣くともフタとるな」といわれている様な面倒な技術をもって飯を炊く。そこにはお母さんの技術と努力と心が込められているからこそ、また、多くの人々の苦労や歴史があるからこそ碗に盛られた飯は美しいのだ。その様な内容だったと記憶しています。

「豆腐」。人々が寝静まっている暗い早朝、豆腐屋さんは仕事にかかる。前日に洗って水につけ大豆を擂り潰し、カスを布で漉し取り、火にかけ豆腐屋のおやじさんの何十年来の勘でここぞと頃合いを見計らって豆乳ににがりを加え固めて型に入れる。そして地下数十メートルから汲み上げられた水の中にきちんと切られた豆腐がある。それが今食べられようと皿の上にあるのです。その瑞々しい豆腐が美しくないはずがない。
この様な内容だったかと思います。大工などの職人とその仕事を大事にした建築家白井晟一らしい文章であったと記憶しています。

さて、「めし」と「豆腐」が目の前にあった時、大方の人は美しいではなく「おいしそう」と感じると思うのですが、実は「おいしそう」の中に美は含まれていると、私は思っています。
だからこそ人は美しく料理して、美しい器に美しく盛りたいと願うのではないでしょうか。そして、労力及び技術の集積もまた、人工物における美の側面となりうるのではないかと考えます。
古墳時代に作られた勾玉は翡翠などの堅い石で作られています。形を削り出すのも並大抵事ではありません。それに小さな穴があけられていますが、道具類が殆ど無い中でどの様にして作られたのでしょう。大変な労力の賜物と思われます。これこそ労力と技術力の集積が美となる典型といえるのでないでしょうか。
また、工芸においては時代にかかわらず、手のかかったものが美しいものの条件となる場合も多いようです。逆にどんなに手をかけても美しくない場合も多いのですが、それはまた別の話です。

さておき白井晟一氏は表面に現れた美しさではなくその奥に隠れた中身にこそ真の美が宿っていると云いたいのだと私は思いました。私にとって大変共感の持てる内容のエッセイだったと思います。

煮初めて10分位。
米粉は十年近く前の古米で一年ちょっと水に浸けデンプン質を洗い流したもの。

15~20分。少し水を足し粘度を調整。

40分位。だんだん完成に近づく。

1時間。完成。

焦げ目やだまだまを取る為に、これを布で濾し上げます。

丁寧に濾して、

完成。茶碗がラーメンどんぶり、どことなくおいしそう、、、。
漆に良く混ざる米糊でないと下地を綺麗に塗付出来ません。