2016年4月5日火曜日

美術感

逆光作:旅立ち


ここ数日、何かと美術について考える事が多いようです。

傍から見れば一見、何もとりたて価値のありそうも無い物にサインや題名を付けて、美術品としての付加価値を付与し、その一連の作品と思わしきガラクタとも見分けのつかないモノを美術と称して自己表現の手段とする、、、、、。

すでに存在する物を、恰も存在しなかったかの様に偽装する事で、この捏造された美術のモニュメントは世界から切り抜かれた個人の一方的な解釈の手管として機能する、、、、。

ごく一般の考え方、ごく一般の社会的概念、といったステロタイプをモニュメントの偽造行為によって更新してゆく20世紀の美術は、そういった「美」の解釈の更新によって、進化しつつ、又ある意味で後退しながら世間一般の美術の概念は構築されている、、、、のかもしれません。

と、いうのも美術的行動、又はそういった発言というものが、如何やら流行しつつあるようなのです。
例えば、ごく普通に歩いているように見えても、歩いている本人は一歩一歩確実にその行動に美術を意識し、自己表現を実行しようとする。そうすると、腕の振り、足運び、若しくは体の全体に、心的な凝視を駆使して感じ取れる、微弱な美術がそこかしこに宿り、やがてその行動自体が美術してゆく、、、、。
それは、物を買うといった行動にも応用されるようになり、ただ普通に買い物をするのではなく、その買うという行動に強く美術を意識する事によって、買う対象が何であれ、自己表現が顕在化し買うといった行動が自己顕示化してゆく、、、、。
例えば、お昼ご飯に食べるおにぎりの食材を買いに行き、色々と美術な食材を買って、美術しながらおにぎりを握ったとします。そうすると、おにぎり一個が美術品となり、その価格たるや、数百万~数千万円の素敵な美術が実行されるわけです。
「いや~、僕、美術で食材を買っているんで、このおにぎり一個500万円するんですよ~。」
と、そんなセールストークも通用する未来がやってくるかもしれません、、、、、。


と、そんな美術の概念などというような事は置いといて、先日の金継ぎ教室は、思いの強い方々のやる気に圧倒され、生徒の皆さんの様に強い気持ちがないと何事も貫徹できないぞ、、、、と、自分自身に言い聞かせ、手工芸の明るい未来を奪還するのだと意味も無く前向きになるのでした。
皆様どうもありがとうございました。

  
逆光作:たそがれ

、、、、と題名を付けたくなる店内。書肆逆光にて。

金継ぎ教室の情景。

金継ぎ教室、今後もどうぞよろしくお願い致します。