2016年12月25日日曜日

相田啓介:まり椀

まり椀とは輪島のレジェンド塗師、故奥田達朗さんが昭和40年代に創作した椀です。当時としては画期的で斬新な何とも美しいその椀に多くの人が魅せられたものです。 
まり、又は毬とは古語で丸い形状の器、つまり椀又は碗のことです。森鴎外の山椒大夫の中で安寿が弟の厨子王に木の「まり」で水を掬って飲み分ける場面が有名です。
「まり椀」とは「椀椀」という事になって、おかしなことになるのですが、「まり椀」とは、何ともかわいらしく、優し気で、美しい命名と、今でも思っています。ですから「まり椀」と言う名称は、奥田達朗さんの創作であり、その椀の固有の名称です。
現在「まり椀」をネットで検索してみて下さい。それこそ山ほどの「まり椀」が出て来ます。それも仕方のないことなのかもしれません。けれども奥田達朗さんの「まり椀」に勝る、又は同等、あるいは近いと思える「まり椀」は一つとして存在しません。
現在も、その「まり椀」は達朗さんの弟の志朗さんが、引き続き製作しておられますし、大阪の工芸店「ようび」で販売されています。
そもそも「まり椀」は弥生時代の土器の碗を製作のヒントとして作られたそうで、その元となる土器は「ようび」のホームページ上で見ることができます。
奥田達朗さんの創作のスタイルは多くの場合、モデルとなる品を長い期間、手元に置き、良く理解を深め、考え、消化し、自分自身の血肉としてから、生み出すのですから、モデルとなる品とは、少しずつ、あるいは、まるで異なった作品となるようです。
「まり椀」もその様な経過をたどって創作されたのですから、弥生の碗とは、かなりの相違があると思われます。
それを、どういう考え違いをしたのかわかりませんが、嘗て奥田さんの周りに居た何人かの人が、
「まり椀」を模作し、販売したのはどういう事なのでしょうか。それも奥田作の「まり椀」の現物を木地屋に丸投げしているのでしょうから、話にもなりません。
塗師が創作又は模作する場合、木地屋に図面なり、現物を渡し、見本挽をし、あるいは見本挽きの現場に立ち会うなり、挽き直しをし、木地屋との様々な遣り取りをして、作るのですが、見本を木地屋に渡し、そのまま木地屋の才覚に任せて作ってしまうのを丸投げと言っているのです。それはその塗師が普段どのような製作をしているのかを見ていれば、大体は想像がつきます。
仮にyさんとしましょう。亡くなられたので故yさんは、それを大量に作り続けられた様で、「ようび」さんが抗議されたのにも拘らず「生活がかかっているから」とのことで,止むことはなかった様です。
そのyさんの肩を持った人、仮にY・Yさんと呼びましょう。そのY・Yさんは私の親しい友人でしたが、その事で口論をし、その後絶交しました。実は創作に対する考え方の相違は、私にとって重大な事なのです。
私の作った面取りの弁当箱は日本民芸館の陶箱をそのヒントとしたものなのですが、それを『yさんがやった事と同様を、お前さんもやっている。」と主張するのですから、絶交も仕方のなかった事と、今も思っています。
その弁当箱からの派生として三段の重箱を作ったのですが、作って一年もしない内に長野県の少しは名のある木工作家が、ほとんど同じ様な形状の三段の箱を作ってDMに使用しているのを見て愕然としたものです。また、その重箱は、今ではごく普通のポピュラーな型として、輪島などの作家達が、少しづつ変化をつけて作品としているのですから何も言うことはありません。

話を戻しますが、最近,旧知のOさんという方が、やはり「まり椀」らしきものを「まり椀」として、個展に出展しているのを、ネットで見かけました。おそらく木地屋に「まり椀」の現物を丸投げしたのでしょうが、Oさんと木地屋の能力の低さの故でしょうか、現物とは少し感じが違うのは、救いであったと思いました。
書いているうちに、腹が立ってきて、ひどい文章になってしまいました。

このままでは、消えてしまうかも知れない漆の仕事が生き残る為の道は、美しく、丈夫な、良い漆器を新たに創作する事と私は信じています。安易な模作、コピー、パクリは創作とは違います。
そんな物は、人の心に響きません。旧来の産地問屋のやってきた事と同じでは、ありませんか。
漆の仕事の将来への道を、狭める行為と私は思います。

私の尊敬する鳴子の故沢口滋さんが新版「日本漆工の研究」のあとがきに残された一文を披露したいとおもいます。


・・・・・伝統的な手工芸の危機が叫ばれてから久しくなります。私は写真取材に歩いた産地の旅で、どこの産地も例外なく後継者の不足、技術の低下、市場の不安定に、苦しんでいる事を知りました。また漆の仕事を支えてきてくれた木地作り、漆掻き、刷毛作り、漉し紙すき等に従事する多くの人々が、更に恵まれない条件の下で、働いている姿を見ました。生活様式の変貌とともに迎えた大量消費時代の中で、私達の祖先の生活と共に活きて来た漆の仕事は、今や消えてゆくかに見えます。一企業、一産地の問題として、その解決の道を見出す事は出来ません。それは、漆工全体の問題として対応されねばならないし、単に伝統の継承や技術保存ではなく、創造という新しい時代の積極的な参加の中で、考えねばならぬ事だと思います。自らが使う為に自ら作ったという工芸の生い立ちは、今日の巨大な生産機構から流れ出す夥しい消費財の洪水の中で、失いつつある自由な魂の回復への手がかりとなる事と信じます。・・・・・・
1966年4月28日   沢口滋

50年前 沢口さん40才の文章の一部です。
故沢口さんは、革新的な考えを持っていた、すばらしい工芸家です。
今はないyさん、Y・Yさんに詫びながら、この文を書きました。


相田啓介作面取りの重箱。高さ18センチ。

18・5㎝×16㎝。