2016年9月25日日曜日

POEM

ファインダー越しに只今制作中。  

たしか先月の事だったと思います。このブログがなかなか更新する事が精神的にも気力が続かず、難しく思っていた時の事です。ブログを主体にして手広く関東方面で成功し、幅を利かせている書肆の方に、このブログの更新が辛いので一度自作の詩でも載せてみようと思っている。と、半分冗談のつもりで聞いてみた事がありました。書肆の彼はパソコンを前にキーボードを打ちながら、視線をこちらへ向ける事なく死んだような冷徹な顔つきでこう言いました。
「そんな事をするようじゃ、、、、終わりですね。」と。
その時は、彼の静かな怒りの前にたじろいでしまい、なぜ「終わり」なのかを聞くことができませんでした。
しかし、この一か月間じっくりその事について考えてみて自分なりの答えを見つけ出せた様な気がします。
例えば、ブログというものを一曲のレコードのような物と捉えてみるならば、恐らく「歌」とギターなどの「伴奏」とで構成されているものが、大体おおよそのレコードのパブリックイメージかと思われます。

もしもブログに於ける写真もしくは画像をギターの伴奏に置き換えてみるならば、ブログの文章はまさに「歌」ボーカルなのです。
リアルな日常を声高に歌ってはじめてレコードとして成り立つのです。
もっと、具体的に言うなれば歌詞の内容こそリリックこそが全ての根幹なのです。
偉大なミュージシャンは、皆歌詞が充実しているのです。
ビートルズ、エルトンジョン、ギルスコットヘロン、マイケルシェンカー、ナパームデス、ゆらゆら帝国、頭脳警察。全てに言えることは歌詞を伝える為にギターの伴奏がある、という事なのです。
歌詞の無いギター伴奏だけのレコードなど誰が認めるのでしょうか。

歌詞の為のギターなのです。「俺はギター一本で飯を食っている。」などと言っているストリートのシンガーソングライターでさえ、その過去において歌抜きのパフォーマンスなどありうるはずが無いという事を知りぬいており、その歌詞を謙遜する思いがそういった発言へと向かわせているという事は誰にでも想像出来る事です。ですからアカペラでも、ただの朗読でもそこに充実した歌詞があればそれはそれでアリなのです。

以前、山手線の電車の中で、ジョンレノンのイマジンの最後のヴァースを繰り返し大きな声で朗読している人を見かけた事があります。人々は彼から距離を置き、視線を合わせぬよう気を遣っているようでした、、、、、。それは優れた詩には神的な力が宿り崇高な何かを思わせる、という紛れもない事実であり、そういった素晴らしい詩は人類にとってかけがえのない神的な何かの証言なのかもしれません。

詩はブログに必要な要素なのです。



その書肆で求めた詩の本。

詩の本の裏側。

制作中の皿も見逃すな。

三段重ねだ。

三段重ね斜め45度よ。
一枚でも斜め45度だね。

鏃の展示台にも最適な一枚・・・・。
文庫本サイズの皿どうぞよろしくお願いいたします。