2016年6月1日水曜日

米、米、倶楽部。

米食文化圏内、フィリピンのココナッツの伝統的なお椀。両手にスッポリと収まりどことなく和風。
米を食すという事について考えさせられる形。


宮城県の桝形囲貝塚という遺跡から発見された土器の底部に籾の圧痕があり、弥生時代のごく初期には、すでに日本では米食による生活の営みがあったそうで、もっともっと前から米を主な食料としていただろう、、、というのが現在の米食の歴史認識なのだそうです。

2000年以上にわたって米食をしていれば、自ずと米にまつわる信仰や祈りといった気持ちが芽生えるのも強ち当然といえば当然なのですが、そういった気持ちが数十年で人々の心から消え失せてしまう、、、、というのもなんだか何かの予兆なのかも、と考えてしまいます。

こんな気持ちが芽生えたのも、先日、青梅市にある朱文筵という工房で催された「椀展」へ行ってきたからなのであります。

両手にスッポリと包み込むように椀を持つという現象は米を食べる、、、、という行為がそうさせているのかもしれません。
そんなかけがえの無い手づくりの椀の展示会は作り手の顔の見えない古い時代椀から今現在朱文筵にて作らているものまで、色々なお椀が展示され大変興味深い催しでした。


まず、こういった旅紀行的なブログを書く場合、道中で起こった色々なハプニング(予想外の事故)や電車の中で食べた旨いもの(駅弁など)の味、思いがけず出会った素敵な人々の思い出(甘酸っぱい恋)などが予定調和として読み手は想像するのでしょうが、そんな定石は会津から新宿までのバスの中でも新宿から青梅市までの電車の中でも起こる事の無い記憶の断片すら思い出す事が困難な片道8時間。長時間の移動というものは脳内のセロトニンの分泌を阻害する効果がある、、、、、、という都市伝説を何処かで聞いた事があります。その中で思った事といえば青梅市も同じ東京都なのにこんなに人口密度が違うのか、、、、という事です。なんだか青梅線の日向和田駅に着いた時には会津へ帰って来てしまった「ただいま」モードになってしまい、自分の家を探してしまい、旅の目的すら忘れてしまいました。


展示会の話しに戻すと、「椀展」では手挽き轆轤による椀木地制作の実演もしており、どういったプロセスで一本の丸太からお椀の木地が出来上がるか、が体験する事によって体を通して知る事が出来ました。手挽きによる轆轤で作られた椀達はどこか人間味があり、一つ一つが違った顔を持っているような気がしました。
朱文筵の皆様大変ありがとうございました。




青梅の景色。会津若松を連想するような景色。

故郷へ帰ったのか、、、、と空を見上げ、自我を失う。

手挽き轆轤。

この、手挽き轆轤が形に自然な柔らかさを付加してくれる。
人工的な作為を和らげる、、、、、ような気がします。

材は栗の木。


何だか素敵。

もう、これで完成なのではと思わせる優しいライン。

展示されてた五郎八椀。

椀の型。(材木を粗削りをして乾燥させたもの)

素敵な展示会大変ありがとうございました。